人にとっての音と雑音(僕は勉強ができない - 山田詠美)

山田詠美のこの本、先日久しぶりに会った友達が「もうすぐ結婚するねん」と教えてくれて、いつだったかその彼がくれた本だったのですよね。時の流れを思い出しながら読み直しました。

音と雑音の違いは何なのか

この本を前に読んだのは7, 8年近く前になるのかな、学生の頃です。その時は「なんか爽快感あって面白いなー」くらいしか感じなかった気がします。でも今読んでみるとこの本のテーマと言うか語られているものは、価値観や捉え方はいっぱいあるんだよ、って話だと思えました。

主人公はちょっと斜に構えたようなところがある高校生で、小学校や高校で、周りの友達や大人達と色んな経験を経て少しずつ大人になっていく。子どももの頃確かにみんな持っていたであろう、世の中とか固定化した色んな概念に対する反発を軸にして、色んな価値観の違いが描かれていく。

例えば「雑音の順位」と言う章では、主人公がドアを叩く音、それは近所の飛行場の音や空き缶を投げ捨てる音、隣の部屋から聞こえて来る音と対比されています。でもそれぞれの音の主にはそれぞれの正義と言うか理由があって、例えば飛行場の音は確かにうるさいんだけど、飛行機を見に集まる子ども達だって確かにそこにはいるわけで。

そして桃子さんの以下の言葉が、色んな価値観の存在を教えてくれてたりするのですよね。

あなたに黙ってたことだけを、私、謝るわ - P.69 桃子

衝撃的な感じですが、でも、それが善いとか悪いとかほんとなくて、ただそれをどう受け止めて、自分はどうしていくんだって言う。そしてある時脳しんとうになって気付いて、急に走り出しちゃうわけです。

同情のかたち

この本は短編集なんですけど、番外編の「眠れる分度器」と言う話がすごく良くて。知らずに同情して誰かを怒らせて、知って同情することで誰かを泣かせて、そして人との関わり方を知っていく、、っていう、60ページくらいしか無いのに描かれている内容が多いです。

みんなこうやってつまずいたりしながら人に気を遣うと言うことを覚えてきたんだっけ。主人公の母や祖父は、自分が自分であることを素直に認められるようになってほしい、と思いながら主人公を見守っています。大人になっていくのに必要なのはいわゆる「勉強が出来る」と言うことではなくて、人生に必要なことを自分で考えて理解して、選び取っていける力なのだろう。

社会も教育も発展して、社会としては成熟したかたちに日々なっていっているような錯覚があるけど、そこに「パターン」なんてほんとは無いんだと思います。みんな持って生まれた、また小さい時に経験した、いやずっと日々経験し続けていくものごとの積み重ねで自分なりの生きる意味みたいなものを見つけていくはずで。それが他者に多大な迷惑をかけるようなもので無い限り、お互いに見守り認め続けていけるような世の中であって欲しいし、子どもにはそういう意味で「自由」に生きていって欲しいなぁと思います。きっと心配でしょうがないと思うけど。自分はそういう親になれるのかなぁ。


思い返してみると、昔読んだ時はこの自由過ぎる主人公に対して反発さえ覚えていたような気がする。でも今読むと純粋にいいなーって思えるし、そういうのもいいよねって素直に思えました。そうやって色んな在り方をただ理解出来たと言うこのことが、「皮むき器」が必要ない、ってことなんだろうなと思いました。まる。

過去は、どんな内容にせよ、笑うことが出来るものよ。 P.193 仁子(秀美の母)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)