自分の復活を知りながら

この場合「禊(みそぎ)」と言う言葉が別に正しくは無いと思いますが、最近ようやく身が清まって呪いから解き放たれたような気がするのでそう書いておきます。誰にも見られることもなく沈んで行くエントリーがたまにはあって良いと。(またこのパターンです)

「気持ちの整理」とか「区切り」って不思議なもので。自分の中に閉じた話だから別に何がきっかけでもいいし、どうあったっていいんですよね。今の自分にとってはそれが時間だったり、日付だったりしたのだろうと。

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先週、妙な縁を感じる友達から電話があって。「あ、これかもしれないな」と思いながらこれまでの自分を振り返って、正直に話して、自分で全部納得出来てしまったのです。

自分に足りなかったのは、嫌なことをただ直視することだったんだろうな。前回のブログとは逆になるんだけど、考えることから逃げて、それこそ「思い込んで」いるだけでは後悔することもあるのかもしれない。いや、この場合はそれを考えること自体は「まぁいいや」で済ますべきことではなかった、と言うただの判断ミスだったんだろう。それを日付に意味を持たせて直視出来るようになった、ということで。

考えてみれば過去のことなんて全て「どう捉えるか」でしか扱えないんですよね。事実は変えようがないですから。でも捉え方、意味の付け方はいくらでも変えられます。起こってしまった事実は全て今の自分の糧になっていて、これからの(たのしくてしあわせな)未来の礎になっているのだ、ということを信じられるようになった、と言うことが自分にとって、みそぎが済んだと言うことなのだと思っています。

と言う訳で、多分調子がよかった5年くらい前の自分が戻って来ました。仕事も上期末で「いそがしい」んですけど、つらくはないのですよね。めでたしめでたし。まる。