供養する人される人(お墓参りオペレーション その3)


お盆前、奥さんが身重だったり父の十七回忌があったりで一人で奈良に帰りました。結婚すると一人の時間が意外とないので新鮮です(新鮮だけど別に一人だから嬉しいということもあまりない)。代わりに今日は奥さんがうちの実家に帰っていたり。

実家に帰るとたまに書いているこのシリーズですが、今日はは世代の移り変わりについての話です。

お墓の有効期限

親戚のお墓を処分するしないの話を聞いて思ったこと。お墓ってなんだかんだ言ってもずっとそこにあるものというイメージってありませんか?僕はそうでした。確かに守り続ける人がいる限りお墓はそこにあり続けるのだとは思うんです。でもその守る人がいなくなればお墓はなくなってしまう。具体的には何年くらいなんでしょうか。

家にもよるとは思いますが、例えば両親のお墓は恐らくお参りするでしょう。祖父母のお墓参りに行くときはきっと両親どちらかと一緒に行くとして、その後もしいずれか(あるいは両方)が亡くなればその祖父母のお墓参りには行くのでしょうか?全部にお参りしたい気持ちはもちろんありますが、物理的な限界もあるので自分は多分行かなくなるんじゃないかなと思います。あるいは何年かに1回行く、とか。

そう考えるとお墓の守られる期間と言うのはせいぜい「その子どもが生きている間」で、1世代か2世代が平均的なところなのかもしれません。親が亡くなってから自分が亡くなるまでの期間はどのくらいかというと、平均寿命が延びているとは言え、ざっくり自分が生まれた時の親の年齢くらいでしょう。ということは大体30年くらいで、2世代ならその2倍で60年になります。

守られなくなったお墓はどうなるのか

今日たまたま石材店の人に聞いたんですが、お坊さんに来て儀式をしてもらって(魂を抜いてもらう、という表現だった)その後石材屋さんが解体する、ということのようで。

つまり誰もお参りしなくなる可能性が高いのであれば、自分が亡くなる前か、亡くなった後にはその守ってきたお墓を解体するということをしないといけないことになります。でないとそのお墓には誰もお参りすることがなくなり、いわゆる無縁仏になってしまうことになります。

永代供養という仕組み

そういう場合に関連するものとして「永代供養」という仕組みがあります。何年、何十年と縁者に代わって供養をして頂けるような仕組み。お墓をなくしてしまう際に永代供養をしてもらうことや、またそもそもお墓を作らずに永代供養をしてもらうような場合もあるようです。その場合はお参りする時はお墓ではなくお寺になるそうですね。ただ今回話している供養はこの永代供養とは本質的に違うので、ちょっと置いておきます。

供養する人される人

合理的に考えればなのですが、お墓参りを追善供養のため、その人の冥福を祈るためなのであれば、供養する人は当然その人を知る人になります。だから縁が深い人ほど頻度も内容も多く厚くなるのでしょう。逆に言うと縁が無い人、現代の「家」の感覚が薄れた状態で言うと「会ったことがない人、お世話になってない人」については現実的にお参りもしない、出来ないことになりそうです。そんなこと言うと「ご先祖様がいるから今の自分がいるのにお世話になってないとは何事だ!」と叱られそうですが。

こう考えると、お墓参りという供養はやはり「己が中心」であり己の生きている間、己の関わった人に対して祈りを捧げるものと言えそうです。例えば父のお墓参りであれば僕は自分が死ぬまで通い続けるはずなので、例えば80歳で死ぬまであと50年、父は供養され続け僕の中で生き続けることになります。

他にも身近な人や大事な人が亡くなればきっと、自分はずっと通い続けることでしょう。そうやって自分が死ぬまで、自分が関わった人たちを生きている間中思い出しながら大切にして行くことが、お墓参りという形式の持つ意味なのだろうなぁ、と思ったのでした。世の中にあるお墓の数はつまりその生きている人たちの想いの数、生きている人の数と本来的には同じになるのかもしれないなぁ、と思ったのでした。まる。